新左翼史へのいざない2

昨年だったか今年だったかは忘れたが、東大安田講堂陥落40周年だとかで、当時を懐古した書籍がいくつか出ているようだ。
一昨年くらいは文化連盟の諸氏も東大の学祭に招かれ、立花隆らと共演していた記憶がある。

だが、今回、いざなうのは、60年代70年代を懐古するといった趣旨のものではなく、80年代90年代の新左翼史である。2冊。

青いムーブメント―まったく新しい80年代史

青いムーブメント―まったく新しい80年代史

政権放送演説で有名な外山恒一氏による80年代90年代左翼論。
80年代90年代における歴史が、非政治的なものと見なされているのは、マスコミが伝えるべきことを伝えていないからである。
そういった問題意識のもと、著者や左翼が運動してきた歴史を記述している。

ポスト学生運動史―法大黒ヘル編 1985~1994

ポスト学生運動史―法大黒ヘル編 1985~1994

法政大OBでもある中川文人氏による著作。
聞き手の外山恒一氏によると、80年代90年代においては、「一連の運動と大いに同質性・同時代性を持ち」ながら、しかし「その主流とは切り離され隔絶して発生し展開してしまった“ガラパゴス諸島の闘争”」と紹介されている。
法政大学の学生運動史である。

法政大にて


4月23日は法政大学文化連盟と314法大弾圧を許さない法大生の会とが呼びかけた集会が行われた。
先日、法大生二人に対し、大学処分がくだされたことに抗議する集会、デモである。
だが、そんなことより、名前が当局に割れていることの方が怖ス。という短編である。

これは誰だろうか

「3.14法大弾圧を許さない法大生の会」というブログがある。
2006年3月14日というこれまでの抗議運動の発端とされる29人逮捕事件が起こった当初から活動している由緒正しき(!)ブログである。

そのブログに以下の写真が掲載されていた。
http://hosei29.blog.shinobi.jp/Entry/1087/

説明がないと非常にシュールに見える写真である。
「これはズートロです」とでも書けばいいと思うのだが。

新左翼史へのいざない

世間には共産趣味という趣向を持つ人間がいる。
左翼の界隈に属している、もしくは、全く関係ない人でも、左翼の動向に対して、執着をもって追いかける種類の人間だ。
もちろん共産「趣味」は共産「主義」のもじりであるが、世間の活動家は過激でもって知られているので、魅力はあるのだろう。
かつて、一人一党とまで言われ、現在でも、無駄に党派がわかれている左翼の世界であるため、なかなか飽きがこない。

だが、一方で、そういった趣向を持たない人間に「中核派っていうのは、革共同の中で分裂してできた党派」と説明したところで、よく伝わらないだろう。
説明が非常に難しい。


右翼と左翼 (幻冬舎新書)

右翼と左翼 (幻冬舎新書)

どうでもいいが、筆者である浅羽通明氏は法政の非常勤講師である。
右翼が左翼の「反動」として現れ、当時は特に「天皇」といったキーワードは意識されていなかったという。日本の共産主義化阻止としての反共・反左翼であった。
新書だけあって読みやすい。戦前からの左翼と右翼との歴史を扱っていて、現在のネット右翼にまで及ぶ。左翼史としては不十分であるが、あまり知られていない右翼史としては知識としておもしろい。


新左翼とは何だったのか (幻冬舎新書)

新左翼とは何だったのか (幻冬舎新書)

荒岱介という戦旗派の方が書いた左翼史(新左翼史)。戦旗派というのは共産主義者同盟、通称ブントの一派だが、党派性関係なく新左翼の歴史がコンパクトにまとめられている。
丁寧にまとめられているため、何度も繰り返し読むと新左翼史が頭に入ってくるかもしれない。

宮下公園にて

本日、渋谷宮下公園にて行われた上映会に行ってくる。

http://minnanokouenn.blogspot.com/

宮下公園関連の短編と佐藤零郎監督の『長居青春酔夢歌』を見る。

宮下公園関連の短編はYOUTUBE等にアップされているので、参照して欲しい。
後者に関しては、先日、長居公園と釜が崎に行ったばかりだったので、予習はできていたような。
長居公園のテント村に対する強制代執行による排除とそれに抵抗する野宿者とその支援者を写した映画である。一番始めのテントの中と外の切り替えしがすばらしい。

タイトルにある通り「青春」として描かれる政治性に非常に共感を持つ。
昨年の上映委員会イベントにおいて、映像と政治との関わりがテーマだったが、報道とも、プロパガンダとも異なるドキュメンタリーという分野の難しさを感じる。

釜が崎暴動が出てくるところに必然性はない、という指摘が会場から出ていたが、ぼくはそうは思わない。勝手に推測してしまうが、運動などをやっている中で相手がなにを考えて弾圧してくるかはよくわからないのである。
もちろんネオリベとかグローバリズムとか説明はできるのだが、共感するというレベルで考えると本当にわからない。
そのリアリティに関して、弾圧の激しさとか、スペクタクルといった方向で補強するのは必然だと思う。必然とまで言わなくともわかることはわかる。

某氏に大阪行きに際して「佐藤零郎と交流しろ」と言われた意味が、色々な意味でよくわかる。